悩み相談

惰性で生きていていいのか【悩み相談】

こんにちは、ゆーこーです。

今回は20代女性のお悩みです。

惰性で生きている

わたしは26歳女で会社員をしています。
恋人もおり、収入もそれなりにあり、身体に大きな問題もなく、生きています。

ですが、自分自身生きることにあまり意味を見いだせておらず、積極的に「生きたい」と思えません。
かといって積極的に死にたいわけではなく、「痛みを伴わずに死ねるなら死にたい」くらいの気持ちしかありません。

多くの人間が当たり前に願う「長生きしたい」「子孫を残したい」などに共感できず、ただ死ぬのは痛いから惰性で生きています。
かつては家族に対して不誠実な行いをした父親に対する怒りや、恵まれた環境に生きる人への反骨精神のようなもので精力持って生きていたのですが、いまはもう、父親とはほぼ縁を切りそこそこの学歴と職を得て、そういった負の原動力も消えました。

今生きているのは惰性です。
恋人のことも、抱きしめたときの温かさに心地よさや愛しさこそ感じますが、それが「だから長生きして一緒にいたい」とつながりません。
あたたかくて、いまこの瞬間の心地よさに包まれて目を閉じて眠り落ちて朽ちたい、そう思ってしまいます。

わたしはなぜ、こんなにも空っぽのまま生きているのでしょうか。どうしたら、活力が生まれ、生きることに向き合い丁寧になれるのでしょうか。

とてもわかりみが深い悩みです。「生きていたい」という情熱が消えてしまった経験は僕自身にもあります。「親が悲しむから死なないけど、親が死んだらいつ死んでもいいな」と達観していました。

そこで今回は

そのお気持ち、私は結構わかる気がします。

私自身も長生きしたいなどとは思いません。
この世界は一瞬先も定義されておらず、全ては無数ある選択肢の一つが選ばれているだけのこと。
だから自分の部屋にいれば一番可能性がある選択肢として「生き続ける」が選ばれ続け、外を歩くと「事故に巻き込まれる」という選択肢の可能性が若干高まり、時としてそれが選択される。そして亡くなることがある。
だからこのままいけば長生きだろうけど、ふとした瞬間に死ぬだろうな、と。
そんなふうに思っています。冷めたお坊さんですね。

でもそれはそれでいいと思うんです。
なぜなら、いまこの瞬間を生きている、それが目的となった人生は限りなく幸せだからです。
未来について逡巡し、不安に左右されることもありません。
過去について後悔し、罪悪感に左右されることもない。
もちろん人生設計はします。
ですが設計したら目の前のことだけに集中する。
これは仏教が目指す境地の一つです。
私はまだまだですが、むしろあなたは悟りの境地に近いようにも思います。

仏教では自分の本質はない「無我」を説きます。
説明したら終わらないので省くと、空っぽの自分でもいいんです。
空っぽだからこそ自分に執着せず、他人のためになすべきことができるんです。

空っぽの自分が悪い、という価値観もありましょう。
というか世の中の教育ではそんな価値観が無意識に植え付けられます。
ですが空っぽの自分こそできることがある、という価値観もあります。
空っぽということ自体に善悪はありません。
そこに私たちが価値を付加して意味を見出しているだけです。
あなたの生き方は別段悪いことではないのです。
たまたま、あなたが育ってきた環境では悪いようにされていただけなのです。

もしかしたら、自分のためだけに生きるフェーズは終えたのかもしれません。
次は他人のために時間を使ってみてください。
相手が喜ぶためには何ができるか?
苦しんでる人と悩みを共有したら気持ちが軽くなって助けられるかも。
そんな思考回路を増やしてみてください。

自分が消えたとしても、他人の心の中に「自分」は存在し続けます。
そんな他人の心の中に刻まれて励まし続けるような人生も良いのではないでしょうか。
僕のお勧めです。

自分で下げたくせにそれを自己肯定する序盤。己の卑屈さを感じずにはいられない文章です。

おばけ君
おばけ君
ネガティブ人間なの?
ゆーこー
ゆーこー
どん底でも元気な自分を見せたかったのさッ!

僕が今回のお悩み相談で伝えたかったポイントは空っぽということ自体に善悪はないよというところです。

表面的な悩みに答えても解決しない

僕はお悩みに回答する時、重視するポイントがあります。

それは表向きには見えない本質的な悩み部分はどこだろうか?という点です。

例えばこの質問では「負の原動力が切れた」「恋人と長生きしたいと思えない」などの具体的な悩みが挙げられています。

ですがここの対処法を教えたところで所詮また悩みは出てきます。なぜなら表面的な悩みを生み出す本質的な悩みが解決されてないからです。

この方は、自分に軸がない、つまり中身は空っぽな自分が生きる理由が見つからないことに対して本質的に悩んでいたように思えました。というより、この方自身も言語化できているので僕の手柄ではないのですが…

ともあれ、ここを解決しなければ意味はありません。また何かの出来事をトリガーとして「私に活力がないのはなんでだろう」と思い悩んでしまいます。

「空っぽな自分を変えたい」

質問者さんの主張を踏まえた上で、僕がお伝えしたのは「空っぽな自分でもいいんじゃない?」ということでした。主張と真逆です。

前提となる価値観をひっくり返す

今回、仏教用語の無我を用いてお答えしました。無我については回答文で説明しているのでこちらでは省きますが、なんのために用いたのかというととの価値観の違いを伝えるためです。

質問者さんは「空っぽの自分はダメだ、変えないといけない」という無意識の価値観を抱いていました。義務教育を受けていれば植え付けられる、ある意味で当然の価値観です。

ですがそれは絶対的な価値観ではありません。価値観に絶対などありません。なぜなら仏教では「本質がない空っぽの自分を認識することこそ悟りだ」という価値観だからです。

この差異、わかるでしょうか。

「空っぽ」に対する価値観が、真逆なんです。

『質問者さんが信じていた価値観は、絶対的なものではない』。

悩みを生み出していた価値観を壊す、今回の裏テーマです。これがわかると「空っぽでもいいんだ、できることはたくさんあるんだ」と、無意識に持っていた価値観から生まれる義務から解放されます。それだけで十分。心は随分と軽くなったはずです。

質問者さんからの返事を見ると、そのお気持ちがよくわかります。

お言葉をありがとうございます。
>もしかしたら、自分のためだけに生きるフェーズは終えたのかもしれません。
これまでの人生は、損なわれたものを埋めるためにあったように感じています。
人間はあくまで器で、その中身を足してくれるのは自分ではなく他人なのかもしれないと思えました。
他の人たちも、きっと当たり前のようにそうやって生きてきて、だから人に興味を持ち生きてるんでしょうか。
私にとっては人は、自分と近しい人、それ以外の有象無象でしかなかったです。、

まだ今日から初めて、他人を人として感じようとするわけなのでうまくいかないでしょうが
いただいた「自分が消えても他人の心の中で励まし続ける人生」という道筋を思い出して、本当の意味でいつ消えたって構わない人生になるよう、歩き始めたいと、いまおもっています。

空っぽだからこそ、他人の中に存在することもできる。理解していただけたようです。

価値観をゆらゆらと乗り換える

この質問者さんだけではありません。

自分が信じてきた価値観だけで生きている方はたくさんいます。親、学校、会社、地域など、様々な場所で植え付けられてきた価値観に縛られる人たちです。

その人たちは全く悪くありません。すべては環境が育んだ価値観だからです。

それはつまり環境ごとに変わるということは、価値観は相対的な物だということです。

価値観、乗り替えましょう。

生きづらい価値観の中で生きていても楽しくありません。

自分の悩みを追求してきた時に価値観の壁にぶつかった時は、自分がやり直したい、もしくは望んでいる価値観に上手く乗り替えてみましょう。

景色が変わって見えるはずです。